「わたしに見えているのは、キミの一部だと思うから」
昔付き合っていた人にそんなようなことを言われた。
ぼくはなかなか人に本音を言わないし、心を開くまでに時間がかかる。おまけにそれを隠そうともする。なんとも掴みにくいヤツである。
だから、出会った瞬間にフランクに誰とも仲良くなれちゃうような、心の扉パッカーン状態の人が羨ましくて仕方がなかった。
嫌いなものを「嫌い」と言い切れるような、つねに本音で生きている人になりたいと思っていたし、そんな人の生態を知りたかった。なんでそんな芸当ができるのだ。
全部を理解されたくない
そんでもって自分でも厄介だなあと思うのが「全部を理解されたくない」という気持ちがあること。
ぼくの気持ちを、考えていることを、見透かされたくないし、なにを考えてるのか分からない存在でありたいとも思う。そのほうがラクなのだ。アイツ変だよな〜と思われていたほうが、ラクなのだ。
いつもぼーっとしていて、考えごとをしていて、のんびりしていて、鈍臭くて、でも、たまにおもしろいことを思いつくヤツ、でいるほうが自分らしくいられる。居心地がいいのだ。
だから本当に仲のいい人にしか本音を話さないし、話した上で理解されないのなら、それでいいのだと思っていた。
ぼくがぼくを理解していて、自分のことを好きでいられればそれでよかった。
理解されたい人
一方で、よく「理解されたい」という人を見る。わたしの思っていることを、行動の理由を、他人にどうしても理解されたいという人を見る。
たぶんぼくが少数派で、大半の人がこっちなのかなと思うのだけど、だからこそ、そうゆう人たちはぼくの研究対象で「どうして理解されたいのだろう」と首をかしげながら観察していた。
そういった人たちは、理解されないとモヤモヤしていた。なんで分かってくれないの!と怒鳴ったりもする。なぜそこまでのカロリーをそこに使えるのだろう。
ぼくにはそれがどうしても分からなかった。理解されないならそれでいいじゃん、って本気で思っていたんだ。むしろ理解されてしまったらツマラナイよ、って。
とある日の出来事
「違う、そうゆうことじゃないんだって」
理解されないバンザイ人間のぼくが、そう声を荒げたことがあった。最近のことだ。
どうしても伝えたいことが伝わらなくて、なんで分かってくれないんだよ、という気持ちが先行していた。大切な人だった。
いつもなら「ぼくはこう思うけど、キミはそう思うんだね。人それぞれだよねえ」なんて言って理解してもらうことを諦めていた場面だ。
たぶん、この人には伝わってほしい、と思ったんだと思う。この日のぼくは、自分でも不思議に思うくらいに熱くなっていた。
伝えたい想いがあるとき
なにかを伝えたくなるときがある。この想いやこみ上げてくる気持ちを、どうしても伝えたいときがある。この人には伝えたい、と思うときがある。
そんなとき、ぼくは心を開くのだと思う。こちらが心を開いていないのに、あちらが心を開いてくれるワケもないからだ。
ああ、ぼくにも理解されたいときがあるのだな、そう思わせてくれた出来事だった。ちょっと人間臭いなって思って、恥ずかしくなった。
たぶん、ぼくがブログを好きなのは、本音を書けるからなんだと思う。相手の反応を気にせずに自分の好きなように思いのたけを書くことができる。この時間は、ぼくにとって貴重なパッカーンタイムなのだ。
それが伝わっても、伝わらなくても、いい。ただ、伝わってくれたら嬉しいな、という距離感が好きなのだ。誰の目も気にしなくていい。
自分が好きでいられればいい
「わたしに見えているのは、キミの一部だと思うから」
昔そう言われたときには「そうだね」としか答えられなかったのだけど、あのとき思っていたことを書く。
ぼくはすぐにいろいろなモノやコトを好きになる。ぼくから前のめりに関わる人たちのことが好きだし、吉祥寺で買ったヘンテコリンな雑貨も、どこかで起きた楽しげな出来事も、冬の寒さにガクブルしている犬も、好きだし愛おしい。
でもこれは理解されなくてよくて、ぼくが一方的に好きでいられれば幸せで、ぼくはぼくが好きであることも、理解されなくていい。恥ずかしいし、見透かされるのは嫌なんだ。勝手に好きでいさせてほしい。
いつの日か「ああ、しみくんはわたしのこと意外と好きだったんだね」って気づかれるのかもしれないけど、そのときは正直に白状するよ。たぶんね。