自分の生きる人生を愛せ。
自分の愛する人生を生きろ。
レゲエの神様であるボブ・マーリーのこの言葉を聞いたとき、鳥肌が立つような感覚があった。
「今まで俺はなにをしていたんだ」と言わんばかりに過去の自分を悔やみ、そして愛した。その瞬間から見える世界が変わっていったのを憶えている。
どんな自分も愛せるのだろうか
「自分の生きる人生を愛す」ということは、
過去の自分も含めてまるごと愛してあげるということだ。しかしそのなかで、どうしても許せない自分、というものがいる。
それが弱気な自分であったり、不器用な自分であったり、人見知りな自分であったりすると思うのだけれど、コイツだけは許せないなあ、という自分はたしかに存在する。
しかしだったらその「許せない自分」ってやつは、誰が愛してやるのだろうか?
どんなあなたも愛してくれるマザーテレサのような人がいるなら別だが、思いつくかぎりこの世界でどんな自分も愛してくれる存在は両親以外に見当たらない。
となると、親元を離れ一般社会に出たとき、
「許せない自分」ってやつは誰からも愛されなくなる。そんな自分をいつしかネガティヴな要素と捉え、欠点と呼び、目をそむけ、近づかないようにする。
ダメな自分を愛してやれるのは、極論、自分しかいないのだ。自分の生きる人生を愛すということは、自分というものをまるごと肯定できる自分への優しさなのではないかと思う。
自分の人生のまんなかにいるか
たとえば人生という山を登りきって、うしろを振り返ってみて、登ってきた道のりを眺めたときに、「これが自分の人生だ。」と胸を張って言い切れるだろうか。そんな人生を現在歩めているだろうか。
あなたが今歩いている道が、その足跡が、いつか頂上から振り返ったときの眺めになる。そのことを自覚しつつ、今を生きることができているだろうか。自分が歩みたい道(したい生き方)から外れているならもう一度見直すべきだと思うし、そもそも一歩を踏み出せていないのならば勇気をもって踏み出してみるといい。頂上までの距離なんてものは踏み出してみて初めてわかるのだ。
じゃあ「どの方向に進めばいいのか?」そんな質問は嫌というほど自分にしてきた。そんな僕からのアンサーを送るとしたら「胸の内から沸き上がる衝動に従え」ということだ。
ようするにあなたの中のワクワクをコンパスにする。自分自身を自分の人生のまんなかに置いて、その直感の向いた方向に素直に進む。これをしてきて、ぼくは今、幸せだ。人の心は自然と行きたい方角を示すのだとおもう。
自分の愛する人生を生きろ
自分の愛する人生、そんな人生を生きられたらどんなに幸せだろうか。そんなことは可能なのだろうか。もしそんな人生が存在するとしたら、それはあなたの中だけにあって、誰の中にあるものでもない。
やれあの人が言ったからとか、上司に言われたからとか、そうゆう言葉をよく耳にするが、それは他人の人生を生きている証拠だ。他人には他人のコンパスがある。その人にとっては幸せな方角を示しているかもしれないが、あなたにとってはそうとは限らない。
自分の人生は自分で決めている。
あなたが今、他人に頼りっきりの、言い訳ばかりの人生を歩んでいるのだとしたら、なにかを変えないかぎり、自分の愛する人生を歩めるようになることはない。あえて言い切ってしまうが、これは本当のことである。幸せの軸が他人に依存しているからだ。幸せになるのは自分だ。
自分の生きる人生を愛せ。
自分の愛する人生を生きろ。
ボブ・マーリーはどんな人生を歩んで、なにを感じ、なにを想ってこの言葉を発したのだろうか。
自分の人生というものを、愛して、愛して、
愛し切った先にはなにがあるんだろうか。
「自分を愛してあげよう」と心で決めた瞬間から、僕らは幸せになっているのかもしれない。