平凡な当たり前のなかに幸せは在る

朝起きて人目を気にせずダイナミックな伸びをする。部屋の窓に目を疑うような青空が映る。きれいな青色だなあ、そんなことを想いながら猫たちに挨拶をする。楽しげなぼくを横目にシッポを軽く振り「ハイハイ」といなすのが猫たちの日課だ。

あいも変わらずコイツらは眠そうで、なにが起きたって「そんなの私には関係ないもん」というような顔で寝ている。猫たちに挨拶を終え、いつものようにすこし嫌がられたぼくは出かけるための支度をする。いい天気なのが確定している本日は心なしかサクサクと動ける。

そうして、いってきますと外に出る。

外のあたたかさに驚いた。まるで長い冬眠を終えたツキノワグマのようにテンションが上がる。ヒトも動物であるのだ。すぐさま春用のプレイリストをセットする。

「あれ?もう春じゃないの?春だよね?」と周りを伺いながら不安げにスタートを切った梅の花たちがちらほらと咲き始めている。春だ。

幸せだと感じるボーダーライン

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ぼくはいろいろなタイミングで幸せを感じる。それと同じくらい、マイナスの感情を抱くこともある。じゃあさ、幸せだと感じるのはどんなときなんだろう? そこに「ここまでいったら幸せだよ」というボーダーラインみたいなものは存在するのだろうか。そんなことをぼんやりと考えてみた。

たとえば本日であれば「外が暖かかった」というだけでこれ以上ないほどの幸せを感じた。自転車を漕ぎながら一人でケラケラ笑っていたくらいだ。相当な幸せを感じている。かと思えばちょっとイイコトがあったくらいじゃ幸せを感じない日もあったりして、なにが幸せを感じるラインなのだろう? と疑問を抱きながら筆を執っている。

雨が降って残念なときと嬉しいときがあるように、その出来事に対して「幸せだ」と感じる日もあれば、同じことが起きているのに「なんでだよ」と落ち込む日もある。

この差はなんなのだろう。いっそ「ここからは幸せ」「ここからは幸せではない」という明確なラインがあったほうが判断しやすいのだと思うのだけど。むずかしいね、ニンゲンって。そんなことをぐるぐると考えているうちに、ひとつ気づいたことがあった。

自分で設定しているのではないか

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なんだか身のまわりの出来事すべてに幸せを感じたり、小さなことにも嬉しさを感じる今日みたいな日もあるし、なにが起きてもマイナスにしか捉えられないような日もある。どんなに人に優しくされたって、それを受け取れない日もあるんだよね。

これはたぶん、誰のせいでもなくって、その出来事がどうこうじゃなくって、自分で設定していると思うんだよね。幸せのボーダーラインを自分で決めてる。「今日はここ」とか「今はここ」ってな感じにね。

ボーダーラインがとても低い日には小さなことにも敏感に幸せを感じることができるし、このラインが高い日は、どうしたって悲観的になっちゃう。ぜんぶマイナスに捉えちゃって、棒高跳びのイシンバエワでも越えられないくらいに幸せのボーダーラインが上がってしまったりもして。外があたたかくって幸せな今日にも気づけなくなる。

だからなるべくこのラインを下げて生きていきたいんだけど、なかなかそうも行かなくってね。無理矢理に「幸せだ」と思おうとしても心がついていかなかったりする。

ほんとはさ、普段過ごしている日常のなかにも幸せだと感じられる瞬間はたくさんあって、ちゃんと目を凝らして見てやらないと見つけられないような嬉しさもあるし、耳を澄まさないと気づけないような幸せもある。

そうやって幸せのハードルを下げていって、平凡な当たり前のなかにある小さなハピネスに目を向けてさ、だれに何を言われても「わたしが幸せだと思うんだから幸せなの!」と言い切れちゃうようなレシーブ力があってもいいと思うのだ。 

あたたかくて春のような本日は、なんだか過去の後悔も、将来の不安も、どうでもよくなった。今この瞬間が幸せなのだから素直にニヤニヤしていればいいのだと、自分にオッケーを出せた。

明日にはまた違うボーダーラインを設定しているのだろう。それでも構わない。今の自分は、ここに設定しているのだ。ここが幸せなのだ。

 

しみ
クリエイター
ふらふら旅暮らし。
映像と文章で生きています。
居心地のいい時間に浸るのが好き。
目の前のひとりを大切に。