心に余白を。まる一日の休息を。

最近イベント企画やらシゴトやら相談受けやら、いろいろやっているうちに余裕がなくなり、ふとした瞬間に

あれ、おれなんのために頑張っているんだろう?

と感じたので、すぐに翌日のシゴトをすべてキャンセルし、急遽丸一日の休みをとった。

そこで感じたことを書いていく。

忙しければ良いわけじゃない

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二年前くらいから人前に出ることが増えた。

はじめの頃は自分でイベントを主催したりして意図的にそうゆうことをしていたんだけど、最近はありがたいことにイベントに呼ばれたり、企画を持ちかけられたりして、露出度が高まるのと同時にスケジュールも埋まっていった。

次々にやりたい!と思わせられるようなことが降ってくるので、片っぱしからやっていて充実感はあったんだけど、なんだか違和感があったんだ。自分は幸せなのかな? そんな疑問が常にぼくの袖を引っぱっていた。

忙しいということは、やるべきことがあったり、求められていたり、シゴトをして働いた分お金をいただけたり、それはそれは嬉しいことではあるんだけど、それが自分の幸せと直結しているかは分からずにいて、そのナゾを解くために本日はお休みをいただきました。

なにげない日常

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久々に「なにげない日常」というものを過ごした。

朝ゆっくりと起きて、洗濯機を回して、たまった食器を洗って、お気に入りのシャツを干す。柔軟剤の匂いがする。今日は天気がいい。

ごはんを作ってたべる。食べたあとボーッとしていたら一時間が経っていた。さて、散歩にいこうか。

そんな感じで歩いていたらよさげな公園を発見。ベンチに座る。深呼吸をする。風が心地よくて、木の匂いがして、肩のチカラが抜ける。

目の前では子どもがおとうさんとサッカーをしていて、ブランコではしゃぐカップルがいて、リッツを食べていたぼくの周りにはハトが集まった。

気持ちいい。こんな時間は久々に過ごしたな。そういえば「息抜き」ってやつをしていなかった気がする。なにを考えるでもなくカラッポのまま夕方までボーッとしていたとき、自分の内側から沸き上がってくる感情があった。

幸せだなあ

拍子抜けだけど、シンプルにこれだった。

こじつけの幸せ

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ぼくらは普段いろいろなしがらみの中で生きていて、そこには人間関係や、やらなきゃいけないこと、シゴトや課題など多くのことが降りかかってきて、なんだかもうよく分かんなくなってくることがある。

たぶん人は外側に対して「いい顔」をしようとするために、いろいろなものを請け負って、スケジュールが埋まっていき、「自分」というものと向き合う時間すらなくなっていくのだと思う。

最近の僕がそうだった。

もちろんたくさんのお誘いがくるのは嬉しい。

イベントやろうよの誘いだったり、友達のバースデーを祝うお誘いだったり、遊ぼうだったり、相談したい!だったり。これらはとても嬉しい。

しかしこれらをすべて受けていると、スケジュールが埋まっていき、お金が減っていき、自分と向き合う時間が減っていき、やりたいことに費やす時間が減っていき、めちゃくちゃ消耗していること気が付く。

勘違いしないでほしいんだけど、もちろんイベントもしたいし、誕生日も祝いたいし、遊びたいし、相談にも乗りたい。

でも、全部は無理なのだ

当然だけど、時間は有限で、ひとりひとりに決まった分しか与えられていなかったりする。

しかしぼくはこの「誘いを受ける」ということを繰り返し、たくさんの場に出向き、たくさんの友達ができ、多くのことを経験できたのだが、その代わりに時間とお金を消耗し、身動きがとれなくなり、自分のために動けなくなった。

その結果ブログの更新が止まったり、個人としての活動が進まなくなった。大切な人との時間もとれなくなった。

そうなってきたときに「なんのために頑張っているのだろう?」という疑問が浮かんできて公園のベンチでこれを書いているのが今だ。

これじゃあ本末転倒じゃないか。

たしかに誰かのために動くことは好きだし、そのために時間は使いたいけど、もっともっと自分のために時間とお金を使ったほうがいいのではないか。そんなことに気付いてハッとした。

ほんとうに大切なものを見失うな

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自分の人生にとって「ほんとうに大切なもの」ってすごく少ないのだとおもう。

この前ミニマリスト(物を持たない、または最小限に減らした生活をする人たち)の男の子と話したときに心に残ったのが、

「ミニマリストって、ただ物を持たないっていうだけじゃなくて、物を減らすことによって本当に大事なものだけが残って、それを大切にしようっていうミニマリズムの思想からきてるんですよね」

という言葉だった。

これはモノだけ限らず、人生にも言えるとおもっていて、自分がやりたくないことや、気分の乗らないことを「いい顔」をして引き受けていると、ほんとうに自分がやりたいことが分からなくなる

人生とはイコール時間のことだ。命とは有限で、人はいつか死ぬのだから、時間を使うということは、大げさだけどそこに「命を使う」ということになる。

自分にとって大切なものはなにか?自分が今いちばん時間を注ぎたいことはなにか?

その質問と向き合い、真剣に考え、今の自分にとって一番大切なこと、やりたいこと、好きなことに命を使ったほうがいいのかもしれない。

それが家族との時間でもいいし、恋人との時間でもいいし、好きな趣味でも、夢のための時間でも、シゴトでもいいとおもう。

大切なのはこれを自分で考えて自分で決めるということで、他人に委ねたり、いい顔をして予定をいれても、それは受け身のスケジュールになる。いつだって、自分を幸せにするのは自分の責任なのだ

とそんなことを想いながら見上げたら夕空が綺麗で、「これは自分にとって大切な時間だったな」と感じた今日はいい日だった。大きめのはなまるをあげたい。

自分を見つめなおす時間をつくる

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それからというもの、ぼくは来月7月の予定をほとんど断り、スケジュールがスッカラカンにになった。というより、そうした。

そしてそこに自分のための時間、自分が心から行きたい遊び、大切な人との予定、必要なぶんのシゴトを入れていった。

そうしたら、めちゃくちゃ楽しいことになった。

だって自分の好きな予定しか詰まっていないのだ。ハッピーマンスリーの誕生である。

大切なことは意外と少ない。

自分のキャパシティーってそんなに大きくなくて、両手をめいっぱい伸ばして抱きしめられるモノってすくなくて、それを越えて抱きしめようとすると、ほんとうに抱きしめたかった大切なモノが埋もれて、どこにあるのか分からなくなる。大切なものは少なくていいのだと思う。

もっともっと、シンプルに生きよう。

そんなことを「息抜き」をして感じることができた。たぶん人は、余白がないと新しいことを考えられないのだと思う。今までのぼくは詰め詰めで、パンパンで、何かが入る隙もなかった。ゆえに思考停止して、日々をこなすだけになっていた。

余白を与えた瞬間、たくさんのことがブワーっと舞い込んできて、楽しくなって、書きまくって、この文字数になった。失礼。

とにもかくにも僕は人が大好きで、楽しいことが大好きで、大切な家族や友達がいてくれると核エネルギーを埋め込まれたようになんでもできちゃう。だから、ほんとは全部のお誘いが嬉しくて、参加したい。僕の周りの友達はみんなほんとにいいヤツなんだ。でも、その出力が分散しすぎるとダメなんだ。ダメだった。

一番大切なものを大切にできているか。

そんな当たり前な質問を、最近は自分にしている。自分の一番近くにあるものを、自分を想ってくれる大切な人を、抱きしめて愛して、すべてはそこからだと思う。

大きな夢を追うことも素晴らしいとおもうし、僕も夢はあるんだけどね。心のまんなかに何を置くか。その上でなにを目指すか。だと感じたよ。

最後になるんだけど、今回息抜きをしてみて、なにげない日常を過ごしてみて、びっくりしたことがあった。忙しく過ごしていたどんな日よりも、今日が一番幸せだった

むずかしく考えちゃいがちだけど、幸せって、もっと近くにあって、シンプルなものなんだろうなあ。

自分に愛を。心に余白を。まる一日の休息を。

 

しみ
クリエイター
ふらふら旅暮らし。
映像と文章で生きています。
居心地のいい時間に浸るのが好き。
目の前のひとりを大切に。