先日、秩父という自然いっぱいの素晴らしいところでBBQという名の川遊びをして、久しぶりに子どもみたいに自然のなかで遊んでみた。
なんだか大事なことを思い出したような気がした。
不完全であること
川で遊んでいたとき、たまたまそこに遊びにきていた地元の子どもたちも遊びに混ざって、大人げなく子どもと本気で川遊びをしていた。
その中で感じたのが「子どもは不完全だなあ」ということ。大人も不完全であるとは思うけれど、子どもはとくにそう感じる。良くも悪くも大人よりも知らないことが多くて、経験もすくなくて、「完全」とはほど遠かったりする。
でも今回こうして子どもと遊んでみて、雄大な自然に触れて、僕はこの「不完全さ」を羨ましいと思った。その理由を書いていく。
眩しかったあの頃
「ねえ、キミに毎日はどんな風に見えてる?」
そんなふうに聞かれたら少年のぼくは間違えなくポカーンとするんだろうけど、今ぼくが少年の頃の気持ちになってそれに答えるとするなら、「キラキラしてるよ」って答える。
当時はそんなこと分からなかったけどね。今あの頃を振り返ると、そんな答えになる。
青梅市という田舎町で育ったぼくは山が近くにあるのが日常で、公園の木に登るのが当たり前で、夏になると川にいったり山にいったり、海にも連れていってもらった。
知らないことが多かったあの頃は、初めて見るカブトムシに興奮したり、川に小さな魚がいて採ろうとしたり、友だちが拾ってきた剣みたいなカッコイイ木の棒を「いーなー」と羨ましがっていたりした。
とにかく知らないことばっかりで、毎日が新しい発見ばっかりで、それを知るのが楽しくて、この世界にはどんだけ楽しいことがあるんだろ〜と子どもながら未来に夢を見ていた。
キラキラしていて、眩しかったな。
これをしたらどうなるの?ということが分からなくて、とにかくやってみたくて、そんなわくわくに満ち溢れていたんだ。まぎれもなく不完全であった。
大人になりまして
そうこうして僕は大人になった。
一生懸命に生きていくなかで、いろいろなことを経験して、さまざまな景色を見て、たくさんのことを知った。不完全さが減っていった。
どうやらこの世界には「ルール」というものがあるらしい。「常識」という言葉もあるらしい。そしてそこからハミ出してしまうと、みんなから良くは見られないらしい。そんなことを知った。
息苦しかったな。夢見ていた世界が一気に崩れていく感覚があった。「なんだよ、大人のほうが楽しいと思ってたのに、ツマンナイじゃん。」そうふてくされていた。
そうして「新しい発見だらけのキラキラした毎日」は次第にカタチを変えていく。社会人になると、どうやらいろいろなことを知らないといけないらしく、能動的に知ろうとしていたことが義務化してくる。
自分が知りたい!やってみたい!と思っていることは「ムリだよ」「やめときな」と言われるようになり、「これは勉強しておいたほうがいいよ」みたいなものが目の前に並べられる。
これを「知らねーよ!」って放り投げてしまうと「あいつは常識がない」と言われる。普通じゃないと言われる。普通じゃなくてなにが悪いのだ。あなたにとっては、世間にとっては普通じゃなくても、僕にとってはなによりも大事なことなんだよ。そんなもやもやをずっと抱えていた。
不完全であれ。子どもであれ。
ルールを守ってしまう僕も大人であれば、そのルールを作るのも大人だ。
そしてそれは正当化されていき「常識」と呼ばれるものになり、それがあたかも完全なものだと思わされる。それを守れない人は不完全であると認識されて、なんだか生きにくくなる。
でもね、今回、子どものころみたいに、あの頃みたいに川遊びをしてみて、気付いたんだ。
不完全でいることは楽しい。ってこと。
その日もペットボトルで水鉄砲を作ってるひとを見てスゲー!ってなったり、下流に探検にいったり、岩場を登るのに挑戦してみたり、たくさんの知らなかったことをした。
たぶん僕らは無意識に「知っていることが良いこと」だとおもっていて、自分が「社会人として、大人として」出来る人間だと思われたいのだとおもう。それはべつに良いのだけれど、そのことを人にも強要してほしくはないな、と思う。
「不完全」であるということは、可能性に満ち溢れていて、ワクワクが詰まっていて、めちゃくちゃ素晴らしいことなんだよ。悪いことなんかじゃない。でもそれを周りの大人が潰しちゃっているのが今の社会だったりする。
完全であろうとする「一般的な」「常識的に」という武器を振りかざす人たちは、子どもには「まあ子どもだし」という具合に寛容なんだけど、相手が社会人となると容赦なく攻撃しにいく。そんな人たちに言いたい。不完全を、可能性を、潰してくれるなよ。
知らないって最強だ。
今、なにも知らないひと、人よりも経験が浅くて劣等感を感じているひと、これからもっともっといろんなことをやりたいひと、知りたいひと、そんな人たちは安心してほしい。僕らは最強だ。
ぼくは社会人になって、社会のルールに縛られるのに違和感を感じて、「そもそもなんで子どもの頃のほうが楽しくて、大人のほうがツマンナイのかな?」ということを疑いはじめた。大人も楽しくていいはずだ。
そしてそれが気になっちゃったもんだから、自分がわくわくすることしかしない!と決めて、会社を辞めた。
それは「川の下流にいったら何があるのかな? 探検してみよ!」ってな感じにワクワクしていた子どもの頃のソレと同じで、つまり可能性に満ち溢れていて、ぼくはその「可能性」とやらに人生をベットしてみた。
その結果、いま、毎日が最高に楽しくて、「次はどんな新しいことをしよう?」と、いつも未来に恋している。
やったことはひとつだけ。自分が不完全であることを受け入れること。
「不完全じゃダメだ」とか「できない自分はダメだ」とかじゃなくて、それを受け入れちゃって、むしろ可能性だと捉えて、わくわくすること。
子どもは、なんにもできなくて、なんにもできないからこそ、全部がキラキラして見えるんだ。
そんなことを、川で子どもみたいにはしゃいで、遊び疲れて、くたくたになった帰り道で感じた。
自然にはルールがない。常識もない。
どこまでも自由に遊ばせてくれる。不完全な僕にも、はなまるをくれる。
ルールや常識なんてものは、ぼくらが勝手に作ってるものなんだろうな。って思ったらなんだか縛られているのが馬鹿らしくなった。
結局、自分で自分の人生にオッケーを出せていれば良いんだと思うな。 たとえ不完全でも。子どもにはそれがある。
遊び疲れたのか、その夜はすぐに寝た。
にやにやしちゃうような胸の高鳴りを夏空に映して。