なんだか最近はスケジュールがパンパンで、嬉しいことが多くて、感動することもあって、いろいろな想いや感情がぼくのなかでダンシングしている毎日でして。
そんなパーリナイな脳内の世界にひたって11日目の本日、そろそろ息抜きでもしなきゃなあとおもい音楽を止めたとたんにダンシングしていた感情たちがこっちを見てきたので「ちょっと待っててね」となだめているのが今である。おはよう。
見落としていたこと
ぼくはなにかに熱中しすぎると周りが見えなくなる癖がある。そのことにのめり込みすぎて、休むことも、寝る時間ももったいなくて、ずっと動いて考えているようなスイッチオン状態になってしまうようなことがよくある。
それはそれで良いことなのだけれど、これをしすぎると一気に体調を崩したり、身近なひとを置きざりにしてしまったり、冷静な判断ができなくなったりするもんで、一度あたまのなかをカラッポにしてみることにした。困ったもんですな。
たぶん、そのときは楽しくて仕方がなくって、嬉しくて仕方がなくって、つねに動いていたいのかもね。つねに動いていないと、なんだかこの感動が止まってしまいそうで「怖い」ってのもあるとおもう。つまりは弱いんだ。そんな自分がいることに気付けてスイッチをオフにできた今日の僕には、大きめのはなまるをあげたい。
カラッポな時間
そんなわけで、あたまをカラッポにしてみる。ぼーっとしてみる。ぐるぐる考えていたこと、てんやわんや騒ぐ感情たちを一旦部屋の外に出して、あたまのなかにスペースをつくる。静寂が「あいつらもういないよね?」とおそるおそる顔を出す。そういえば、こんな時間はあまり取れていなかったなあ。
そうして余白ができると、いろいろなものが見えてきた。電車から見える木々がすこしずつ色づいてきていること、今日は天気がいいこと、温かい日差しを浴びる赤ちゃんが気持ちよさそうに寝ていること、朝の空気がきれいなこと、鳥たちの元気な声がきこえること。ホットコーヒーがおいしいこと。
見落としていただけで、見ようとしていなかっただけで、この世界にはたくさんの幸せが隠れていることに気づいた。
イヤホンをつけてシャットアウトして、考えごとばかりしていたぼくは、日常を「感じる」ということをしていなかった気がする。あたまで生きていて、五感を使っていなかったようにおもう。
人も、どうぶつも、野菜も、自然も、景色でさえも「生きて」いて、そこにはきっといのちがある。いのちには温度があって、ぼくらはそこに触れることで温かな幸せを感じることができる。穏やかな気持ちになることができる。たぶんだけどね、人にはぬくもりが必要で、いのちには温度があると思うんだ。
たくさんのいのちに触れていけ
すこしの時間だったけれど、なんだかたくさんの幸せに触れることができた。いのちを感じることができた。
人も自然も、すべてのものが「自分」を表現しているキャンバスがこの世界なのだとしたら、もっとそれを感じていけるようになりたいものだなあと思うし、それはたぶん、こころに余裕みたいなものがないと見つけられない。ちいさな温度も拾っていけるような、スペースのあるカラッポな人間になりたいと思うのであります。きっとそのほうが、幸せで、たのしい。
そんなことを考えていたら目的地についた。感情たちが「そろそろ入れてくれよ」と言わんばかりにドンドンとドアを叩いてくる。まったく騒がしいヤツらである。ここちよい静寂の時間もおわりだ。「お前らがいるとちいさな声が聞こえないんだよ」とつぶやきながらもドアノブに手をかける僕はまだまだアタマのなかで生きているってなもんで、困ったもんです。