季節は夏。日中は「これでもくらえ」と言わんばかりに張り切っていた陽射しとやらがすこし休憩しはじめたころ、斜めに傾いたソイツによって作り出された夕暮れの駅のホームにはじゃれあう親子がいて、それを見るぼくを柔らかなオレンジが照らした。
ひだまりの帰り道、あしたからお祭りがはじまるということで商店街はガヤガヤしていて、なんだかみんな楽しそうだ。ちびっこはアーケードを走りまわり、ツノの生えかかったお母ちゃんがそれを追う。そんなお祭り前夜の浮き足立つピースフルな光景を見守る提灯たちが、穏やかに微笑んでいる。
こんなにものんびりと過ごした日は久しぶりだったなあ。なんだかすーっと心の奥がラクになった。考えたことを書く。
なにを目指しているのか
僕はいつもなにかに向かって走っていないと、つまらなくなってしまう人間だ。すぐに退屈してしまって、また次のことをやりたくなる。
それゆえにやりたいことへ向かうときの走力はそんじょそこらのスプリンターには負けないくらいには鍛えられた。持久力はあいも変わらずないのだけれど。
そんでもって引き寄せているのかは知らないが、ぼくの周りにはそうゆう走り屋みたいなヤツらがたくさんいたりして、F1レーサーよろしく、トンデモナイ速さで飛ばしていたりするわけだ。
そんなトンデモスピードに対して「負けねえぞ!」って並走しようとしていたのが僕なのだけど、きょう一日のんびり過ごしてみて、あれ、おれはなにを目指して走ってるんだ?ってなったのだ。
なにを幸せと感じるのか
ぼくはあまり物欲がない。くわえて地位や肩書きにも興味がない。だから「お金がたくさんほしい!」とも思わないし、すごくなりたい!とも思わない。そこを目指そうとしても驚くほどに頑張れない。
ブログで独立できたときも、会社を設立したときも、さして幸せを感じたりはしなかった。お金は必要な分あればいい。肩書きや地位は自分の動きを制限してしまうのでいらない。
じゃあ、ぼくは何に幸せを感じるのだろう? そんなことをぼーっとひとりで考えていたのが本日で、ぼんやりと浮かんだコトバが「こころの自由度」というものだった。
前のめりに好きでいられる自由
ぼくが幸せだと感じるとき、必ずそこにはぼくの意思がある。ほかの誰にも依存しない、前のめりな感情がある。
たとえば人を想うとき、ぼくは幸せを感じる。だれに言われるまでもなく、自分から誰かのことを想ったり、愛したり、そうゆう受動的ではない前のめりな感情に幸せを感じる。
たとえば島旅をしているとき、ぼくは幸せを感じる。のんびりとした時間も、いつだって寄り添ってくれる大きな海も、自分がちっぽけだと思わされる星空も、こころから大好きだと叫びたいほどに島旅が好きなのだ。
そんな前のめりな瞬間や、自分からなにかを好きだと思える瞬間に、こころが自由であることを感じる。
モノがあるから幸せなのではなく、他人より優れているから幸せなのではなく、ぼくはたぶん、自由になにかを好きだと叫べること、前のめりに人を愛せることが幸せなのだ。
ふつうの暮らしのなかに
ぼくはずっと誰かと競っていた。比較していた。自分がなにを目指しているのかも分からずに、ただ隣を走っている人に負けたくなくて、がむしゃらに足を動かしていた。
ほんとうはさ、競う必要なんてないんだ。ぼくとあなたはまるっきり違う。あなたにはあなたの生き方があって、幸せがある。それと同じように僕には僕の生き方があって、幸せがある。
ぼくはふつうの暮らしが好きだ。なんでもない、ゆうらりとした日々が大好きだ。
実家でぐうたらしてる猫を眺めている時間も、弟と冗談言いながら笑ってる時間も、母のつくる納豆オムレツをたべてる時間も、父のボケに家族で総ツッコミしてる時間も、天気のいい日に散歩をしている時間も、アイツらと酒を飲んで笑ってる時間も、ちょっと飲みすぎて反省する翌日も、平日のよるに彼女とごはんを食べている時間も。
いまの僕は、こうゆう前のめりに愛していける瞬間に支えられてる。余白のあふれる毎日に大切が詰まっていたんだよ。
子どもの頃はさ、自分の「好き」に正直だった。楽しかったら喜んで、悔しかったら泣いて、嫌だったら突き放して、好きだったら愛して。
いつから素直に生きられなくなったんだろうなあ。自分のこころを不自由にしていたのは、ほかでもない僕だったんだ。
あんとき思い描いてた大人ってやつに、僕らはなれているのかなあ。ほんとうに大切なものを大切にできているのかなあ。しみ少年がいたならさ、「大人ってつまんねえなあ」って笑われちゃう気がして。
みてろよ。大人だって毎日を楽しめるんだよ。好きだって叫べるんだよ。