「社会のためにこれがしたい」「こんな世界にしていきたい」という言葉を聞くと、すげーなあ、と思う。
嘲笑する気持ちなんて毛頭なくって、純粋にすげーなって思うんだよね。全俺の「素直さ」をかき集めて拍手させてやってもいい。
なんでそう思うのかって、僕には出来ないからだ。いまの僕には「実現させたい社会像」もなければ「社会のためにこれをしたい」という気持ちもない。
自分と、自分の身近なひとのことを考えることで精一杯なのだ。なんて狭いキャパシティ。小さきココロ。スプーン一杯分の人生である。
だから、大義名分を掲げて行動している同世代を見ると、なんちゅうフェーズにいってるんだよお前さんってなる。隣の芝は青いどころかマザー牧場顔負けの広さだったわけだ。
圧倒的リスペクト。ほんとうだ。嘘じゃない。数年前の僕は、自分のことしか考えていなかった。
自分を幸せな状態にすることに一生懸命で、ほかの誰かよりも、自分のために生きていた気がする。
それから数年経って、自分がようやく満たされて、まわりの人にもなにかできたらなって思った。
ちいさなことから始めた。
ツイッターをがんばりたいって言った女の子のためにあれこれ考えて伝えた。おもしろい友だちをもっと知ってほしくて動画編集をおぼえた。
ウチのBARで店長やってくれてた友だちがお店を閉めるタイミングで閉め作業を手伝いにいった。個人で仕事をしたいと言っていた弟とサッカーのチャンネルをつくった。
友だちが腰を痛めたら無償で治療をしにいった。彼女にまいにち好きだと伝えた。親に会いに実家に帰る時間を大切にした。
ぜんぶ、僕が進んでやったことだ。
いつも近くにいてくれるひとに、自分ができることをしたいなって思った。小さいねって笑われるかもしれないけど、これが僕の今できることだった。
身近なひとのことを、もっと好きになった。
話は変わるけど、このまえ実家の猫が亡くなった。だいすきな、ミルという猫。
僕が10才の頃から一緒で、ふたりで寝たり、トイレに入ったり、もふもふな毛に顔をうずめたり、とにかくだいすきで仲良しだった。
ミルは18年生きて、老衰で死んだ。
猫の寿命は15年くらいだと言われているから、とても長生きしたんだよ。
だんだん足を引きずるようになって、歩けなくなって、ごはんを食べなくなって、やせ細って、たぶん、今日亡くなるなってタイミングで全予定をキャンセルして実家に帰った。
翌朝、もう目も閉じなくなって、わずかに息をしながら寝てるミルのお腹に手をのせて、僕も一緒に寝た。起きたら亡くなってた。いつ亡くなったのかわからないくらい自然に、息をひきとった。
僕は人前で泣くのが苦手で、ひとりになったタイミングでわんわん泣いた。
ミルは、18年間静かに生きた。
ミルが生涯関わった人といえば、ぼくら家族4人と、ウチに遊びにきた友だちと、佐川急便のおじちゃんくらいだ。
いつもどんなときも日向でぐっすり寝ているミルに癒されたひとは多くて、みんなミルがだいすきだった。
いまこれを書いてるときも涙が出てくるんだけど、それくらい愛されてたんだよ。小さく小さく、数人だけど、近くにいるひとを幸せにして、のんびりと生き切った。
僕は、ミルみたいに生きたいなって思った。
社会をがんばって変えたいとは思わない。社会のために情熱を注ぐこともできない。そういうのは、そういうことをしたい人に任せておくことにした。
僕は、僕と、僕の近くにいてくれるひとのことを考えてみる。ちいさいけれど、今はこれでいい。
いつか大義名分を掲げたくなったら、そうゆうフェーズにいったのだと思う。そこが正解だとも今は思えないけれど。
大義名分はない。でも、近くにいるヤツらをちょっと幸せにすることはできる、と思う。全俺の「素直さ」をかき集めて、叫ばせてやってもいい。