夏の空を見上げて。

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24歳夏。目が覚めて、ベッドから起き上がり、突き抜けるような青空に気持ちよさを感じて伸びをする。ピーカンってやつだ。昨日の台風のおかげだろう。

こんなとき、決まって思い浮かぶのは、麦わら帽子と虫カゴをもった白いランニング姿の男の子が入道雲に向かって駆けていく映像。「ぼくのなつやすみ」のそれである。たしかにぼくにもそんな頃があった。

そんな僕ももう、24歳である。

大人になりまして

スラスラと、いやゆるゆると大人になりまして、おかげさまでいろいろと出来るようになったもんで、午前中はカフェで「デスクワーク」といわれるものを ” 大人らしく ” こなしていました。

いやあね、夏になると子どもの気持ちに戻るというか、はしゃいじゃうような、なんでも許されるような気持ちになりまして、ついつい童心に返ってしまうわけですよ。

童心に返ったぼくはアクション仮面よろしく、なんでも倒せてしまうわけで、目の前のタスクや溜まった作業たちもバッタバッタとなぎ倒していくわけさ。そのくらいのエネルギーが子どもの頃には秘められていたもんで。オトナってのは強いんだい。

上がっていくステージ

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でもこれが突然通用しなくなっちゃうときがたまにくる。いまの自分じゃあどうやったって勝てない「なん、、だと、、」な状況がきたりするんだよね、大人ってのは。難解なステージばっかりでさ。

今のぼくはこの「なん、、だと、、」の連続で、そんなことに負けねえええって言いながらトライ&エラーを繰り返している日々ゴーマイウェイなわけです。なんとも世知辛い世の中でございますな。

でねでね、例外なく今日も「なん、、だと、、」をしていたわけですけれども、急に思ったことがありまして、それを ” 大人らしく” 文章で伝えようと思った次第であります。

大人がツマンナイのはおかしい

難易度をひっくり返せ

ぼくは、みんなとイベントをやったり遊んだり馬鹿なことをしたり友達と笑ったり山や海や自然の中で遊んだり、そんなことをやっている時間がたのしい。

コレってのは全部「子どもの頃にやっていたこと」だったりして、あの頃の「たのしい」をほじくり返していることが今の楽しみだったりする。自然の中で遊ぶことも、友達もはしゃいで笑うことも。

つまりぼくが大人になった今、心から純粋に「たのしい」と思うことは子どものころにやっていたことであってさ、でもなぜだか大人になるとあのころ毎日のようにしていたことが、毎日はできなくなって、両足に重めのパワーアンクルが付けられるような感覚に陥るのであります。

遊びに費やす時間がへるのに伴って、一回の楽しさの純度みたいなものが上がっているような気がして、それは良いことだと思うんだけどちょっと悲しくなった。

オトナというステージにくると、シゴトやら人間関係やら社会との繋がりやら上司やら後輩やら会社やらいろいろなものが絡んできて、それらに割く時間がやっぱり増える。

これをパワーアンクルだとは思わないし、もちろんそれらも「たのしい」ことではあるんだけど、あのころの楽しさとはちょっとちがうんだよね。

今でも心の底から純粋に「たのしい」と思うのはやっぱりあの頃やっていたようなことで、なんなら大人になるとお金も行動範囲も広がるもんだから、あのころの遊びが「登山」やら「キャンプ」やら「マリンスポーツ」やら「旅」やら「フェス」みたいな感じで昇華されてもっともっと楽しい娯楽になっていたりする。

それはそれは素晴らしいことだと思う。

でもね、そこを楽しみ切れていないというか、子どものころの遊びがどんどんと展開されて「たのしい」が増えているはずなのに、ツマンナイ顔をしているオトナが多いなあと感じたんだよね。子どもたちと比較して。

そこに「なんでだろう?」と疑問をもって夏の暑さが立ちこめる気だるい夕方にお昼寝から目覚めてベッドの上でこれを書いているのが24歳 ” オトナの ” ぼくである。おはよう。

なんでだ

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たしかに腕は上げてきた。難易度の高いステージもクリアしてきた。出来ることも増えたしアクション仮面のように倒せるようにはなってきた。実力はつけてきたつもりだ。あきらかに子どもよりも人生を楽しむチカラはあるはず。

それなのになぜ「ぼくのなつやすみ」だった子どもの頃よりもツマンナイ顔したオトナが多いのだろうか。実際にいま、あの頃を羨むように映像が浮かんでくるぼくがいるのだろうか。そんなことを考えた。

考えて考えてひとつ分かったのが、「なにも知らないことは最強なのではないか」ということ。何を言ってるんだコイツ、と思った黒髪ロングのあなたはポニーテールにしてから出直してきてほしい。

子どもはなにも知らない。山にはどんな楽しいことがあるのかも、虫を捕まえて育てたらどうなるのかも、入道雲に向かって走った先になにが待っているのかも知らない。

この「知らない」ということがめちゃくちゃ才能で、ドキドキの原材料で、「オマエらよりも難解なステージクリアできるから」と得意げな顔したオトナなぼくらは実力がついたのと同時に、この「知らない」に飛び込む才能を失ったのだとおもう。

勝ち方を知った

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前述したように、オトナになると難解なステージが増える。倒すべき敵(タスク)も鬼のように増殖する。そのなかで「いかに効率よく倒すか」みたいなことを考えたりも、もちろんする。

それを繰り返していくと、負けてる時間がもったいなく思えて、知らないことに飛び込むよりも、知っていることを素早くこなしていく能力が身につく。そのほうが評価もされる。

つまり「自分が出来ることの中」で勝負するようになってきて、負けること(失敗)を恐れるようになる。リスクのあることには飛び込まなくなる。ここまでいったら負けるなっていうラインが分かるようになるからだよね。

悲しいかなこれが勝ち方を知ることだとおもうし、オトナには必要な能力なのかなとも思う。

でもね、子どものころのあの「たのしさ」は間違いなく「知らないこと」を追い求めることによるワクワクやドキドキにあると思うんだよね。あのころはなにも知らなくて、新しいことに飛び込むことばかりで、それが最高に楽しかった。

つまりオトナに置き換えると、結果のわかりきったモノじゃなくて、負けるかもしれない要素を含んだものに該当するかもね。多少リスクがあっても「あそこには何があるんだろう」「いってみようかな」というワクワクがあって、子どものころに森の中を探検したときのソレと同じ。

知らない」に可能性が詰まっていることに気づくのに24年かかった。

負けへんで

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ぼくは意外と負けず嫌いでさ、子どものころの自分よりも楽しく生きたいと思っているし、大人のほうがツマンナイというウソを暴いてやりたいわけさ。難易度をひっくり返したいわけだ。

だからリスクのあることに挑戦して、負けるかもしれないことに飛び込んでみて、「知らない」をやってみて、ドキドキしながらもスリリングな明日にしてやろうとニヤニヤしている。たのしい。

子どもはなんでも楽しめる。なんでも楽しめるから、敵が敵じゃないんだよね。「無敵」ってたぶんそういうこと。目に見えるすべてのものは、倒すべき相手じゃなくって、楽しむためのアトラクション。戦ってないんだよね。そもそも。

それがいつのまにか「これはアトラクションじゃありません」と叱られて「倒すべき敵はこれです」と目の前にやりたくもない宿題が用意されちゃって、すこしずつ敵認識に変わっていっちゃうのかもしれない。

「とーちゃん楽しそう!いいな!早くオレも大人になりたい!」

そんなことを言われる大人になってやりたいと思いながら異常なまで夏の暑さに「なん、、だと、、」と呟くぼくはまだまだカッコ悪いオトナでして。

しみ
クリエイター
ふらふら旅暮らし。
映像と文章で生きています。
居心地のいい時間に浸るのが好き。
目の前のひとりを大切に。