「目の前の一人から」ピースフルに生きていきたい夜。

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部屋を暗くしてベッドに入って眠りにつく少し手前の、おそらく最も想像力豊かな時間帯。

明日はなにをしよう?
今日はどんな日だったっけ?
いつかこんなところに行きたいなあ。

夢を膨らませてもいいし、物思いにふけってもいいし、好きな子を描いてもいい。そんな自分だけの自由な遊び場。いろんなことがぐるぐる巡る、小さい頃から大好きな時間。

そんな時間によく考えることがある。

今回はこの遊び場タイムにうとうとしながら楽しい妄想のなかで書いた、ちょっと夢見がちなお話。

世界との繋がり

突然ですが、世界と自分って繋がっていると思いますか?

すごく漠然としてて分かりづらいかもしれないけど、なんだか最近考えるんです。夜はとくに大それた思考になる。

たとえばね、僕が街ですこし良いことをしても、世界にはなんの影響もないし、清水少年が先生に怒られるようなイタズラをしても、日本にはなんら関係なくって。

イギリスでウイリアム王子とキャサリン妃の間に子供が生まれても、僕の生活にはなんの変化もなく、

アベノミクス効果で近所の八百屋さんのきゅうりが安くなるわけでもない。

なんだこれは。って思うんです。

世の中で起こっていることと、僕らは、実際にはつながっているんだろうけど、そんな実感がまるでない。日々の生活のなかで感じることといえば 「あ、なんかちょっと今日警察多い?えらい人くるのかな?」くらいだったりする。

いったいなぜなのだ? そんなことを考えはじめたら止まらなくなった。

僕らへの影響力

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世界や日本の大きな変化は、多少なりとも僕らの生活に影響する。なによりそれを知ることができる。ニュースやメディアで。

でも僕らの大きな決断とか、たとえばがっつりイメチェンしたり、明日好きな子と会えることになったり、ずっと欲しかった帽子が買えたり、友達と仲直りできたり。

そうゆうのは全く世界に伝わらない。僕らにとっては大きなことなのに

あちらのことは伝わるのに、僕らのことは伝えられない。なぜだ。そんなことが巡ってる夜。

表現活動から感じること

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そんな伝わらないことばかりの世の中で、なんとか伝えようとする人がいる。

表現活動をする人たちだ。

たとえば音楽もアートも映画も執筆も、そういった「表現活動」といわれるようなものは、自分を表現するための主張していくためのものであったりする。

じゃあなんでソレをするのか?を考えたところ、いくら自分の声で主張しても伝わらないから、好きな表現方法で、いろんなカタチに変えて、伝えようとするのかも。という答えみたいなものがでた。

「ここにいるよ」って。「生きてるんだよ」って。影響力のない僕らが、あちら側(世界)に対して、背伸びして手をふってアピールしていくための手段、なのかも、と。そしてだれもが表現者なのかもしれないと。

伝えたいことが伝わらないから「表現活動」と呼ばれるものが生まれて、みんなが自然と自らやるようになって、そこに人(オーディエンス)が集まる。

そこには伝えたいという意思と、伝えている姿に心を動かされる感動があって、本質には自分が伝えられないことを上手く表現して伝えてくれた人への「それな!」みたいなものがあるのかもしれない。

そしてひとりの個人って、どうしても影響力はないけれど、自分の気持ちって伝わらないけれど、それでも叫びたくて、あれこれ試して悩んで考えて届けようとすることに、小さな生命活動を感じるし、共感するし、素晴らしいと思うわけだ。

世界のことは瞬時にぼくらに伝わるけれど、ぼくらのことを世界に伝えるにはこういった表現活動をしないとなかなか伝わらない。なぜここの関係性はフェアではないのだろう。

インターネットがここを解決してくれると思っていたけれど、まだ先の未来なのだろうか。

伝わっているよ

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僕らと世界の関係性。人はたぶん、自分の感じたことや考えたこと、経験したことや触れたもの、聞いたことや見たことを中心に自分の中の世界がまわっていて。

ボリュームの大きさは違えど、みんな何かを主張していて、何かを伝えたくて、日々がむしゃらに過ごしていて、そのための手段が表現活動だったりして、ぼくらはやっぱり自分の生きている証を、やってきたことの努力を、泣きじゃくった夜を、人への感謝を、愛を、伝えたいんだな。と考えた夜。

そして僕はなるべく、その声を聞き取れるような人間になりたいし、アンテナを張っていきたい。受け容れて、分かち合いたい。

だからね、だれも聞いていないと思って、叫ぶのをやめないでくれ。気持ちを伝えるのをやめないでくれ。と思うわけです。少なくともぼくは聞いているよって。リスナーのいないラジオは作りたくないんだ。

無駄じゃない

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なんか書き殴って脱線しまくったけど今日は許してね。

結局なにが言いたいかっていうと、世界と自分は実は繋がっていたりして、世界には僕やあなたのように何かを懸命に伝えようとしている人が、もう考えられないほどいて、一つ一つの主張はほんとにちっぽけで、誰に伝わってるのか、誰に伝えてるのかもわかんないけど、生きて主張し続けることで、誰かの心を動かしているはずで、見てくれる人はちゃんといて、その連鎖の先に、だれかの笑った顔があるんだなと。

一人一人が自立した個性をもっているにも関わらず、自分以外のだれかのために協力しようとして多くの人が平和を望むこの世界は素敵だなあと。寝るまえに考えて書かずにはいられなくなったわけです。

無駄じゃないんですよね。決して無駄じゃないんです。明日僕がしようとしてるイイことも、今日感じた嫌なことも、ちびっこたちが元気に挨拶することも、イタズラしたことを反省して謝るのも、ありがとうを言えなかったのを悔やんでることも。

誰かに伝わってるんです。見てくれているんです。小さくても影響しているんです。少なくとも僕はアンテナを張っています。

寝ます

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まあでもこんなものは机上の空論、いやベッド上の空想でありまして、明日の朝には忘れてるか、この記事を見てちょっと後悔してるか、はたまたオモシロイなあと思ってるか、そんな感じです。

ねむいので文章めちゃくちゃですが、こんなことが頭を巡ってたのも事実。フワフワ考えたことも文字にしてみると、ちょっと輪郭が現れるものですね。

最後に大好きなコトバを紹介して、ぼくは寝ることにします。まぶたが曙並みの重量になってきたので。

伊坂幸太郎さんの「砂漠」という本のなかで、西嶋という男が言い放ったセリフ。

「 目の前の人間を救えない人が、もっとでかいことで助けられるわけないじゃないですか。歴史なんて糞食らえですよ。目の前の危機を救えばいいじゃないですか。今、目の前で泣いている人を救えない人間がね、明日、世界を救えるわけがないんですよ 

僕らのちっぽけな声って、なかなか世界には届かないけれど、諦めてしまいそうになるけれど、このコトバを聞いて伝え続けることを決めた。

目の前の一人から。

そんな小さなところから、平和って生まれるのかもしれない。

そして、そんな小さなことなら、僕にだってできる。僕にできるなら、君にもできる。

そんなことを人生を通して伝えていきたいなあ、なんて思ったまま眠りにつけるのが嬉しい夜。おやすみなさい。

しみ
クリエイター
ふらふら旅暮らし。
映像と文章で生きています。
居心地のいい時間に浸るのが好き。
目の前のひとりを大切に。