人が人間らしく生きるにはどうしたらいいんだろう?
そんなことを考える。
ぼくらは普段なんとなく同じルーティーンで生活していて、社会人にもなってくると日々の生活が作業化してきて、なんというか「変化」が減る。
自分で求めにいかないかぎり新しい刺激ってやつも現れなかったりする。
そしてそういう毎日を過ごしていると、自分のなかに生まれる ” 小さな感情 ” を忘れてしまったりする。かつての僕がこれだった。
小さな感情を拾っていく
たとえば日常を過ごしていて「あ、なんかいいな。好きだな。」って感じることってあると思う。
たとえば僕なんかは、夏の朝のあの気持ちいい涼しさとか、そんな中チャリを漕でいるときの ” なんだか今日も楽しくなりそうな予感 ” が好きだったし、高校生のころ部活帰りに精肉店のおばちゃんからメンチカツを買うのが好きだった。
こうゆうときに生まれる小さな感情って、日常のなかに埋もれて見落としがちだとおもうんだけど、人間らしく生きていくためにすごく重要なものなのかもしれないって感じたんだよね。
人間らしさは「感情」の中に凝縮されている
人には喜怒哀楽では収まらないほどたくさんの感情ってやつがある。
イライラした、寂しかった、悔しかった、嬉しかった、ワクワクした、にやにやした。
そうゆうものの中に人間らしさはあるとおもっていて、たとえばロボットなんかにコレはない。この感情ってのは人間のもつ素晴らしい機能なんだよね。
1日のテンションが変わったり、起きた出来事にたいして自分が影響を受けるのもこの感情のせい。いや、おかげかな?
つまり感情のなかに人間らしさがあって。そのなかでも僕がとくに最高だとおもうものが「好き」という感情なんだ。
「好き」を追求してみる
人間らしさって感情のなかに詰まっているのかも!とおもった学生時代の僕は、日常の ” 小さな良い感情 ” を拾ってみることにした。
- 朝早起きしてゆっくりコーヒーを飲むあの心の落ち着きみたいなものが好き
- 秋の淡い空と枯れ葉の切なさも好き
- 夏の夜に遠くのほうでお祭りの音が聞こえてきて、アッチのほう楽しそうだな〜ってなる感じも好き
- 深夜みんなが寝静まったあとに観る映画も好き
- 夢を語るときの友達のイキイキ感も好き
- 路地裏とかを歩いてたまたまいい感じのお店を見つけたときの小さなハッピーも好き
こうやって拾ってみると、小さな良い感情って案外たくさんあったんだよね。気付いてないだけで。忘れちゃってるだけで。
こうゆう「なんとなく好き」な感情って普段どうしても流してしまいがち。留めておかないと、もったいないなぁって。
なんとなくを大切にする
なんでこれらが好きなのかと言われると、なんとなく良いと思うから。でしかないんだよね。このなんとなくってのが大事で、これは子どものころに持っていた感覚と似てるな〜って。
小さい頃はよく「虫捕りにいこう」とか「サッカーしにいこう」とか「泥だんご作ろう」とか、そんなことにハマってワクワクしていたんだよね。
でも、そこに理由はなかった。なんとなく楽しそうだから。なんとなくワクワクするから。
そんな感覚の裏側には実はいろんな「幸せの素」みたいなものが隠れているとおもうんだ。
だから「好き」と感じた瞬間、そのときの感情や心の声をちゃんと拾ってあげて、自分の心が喜ぶことにたくさんの時間を使ってあげる。
それがルーティーンのなかで忘れてしまった「人間らしさ」を思い出す第一歩なのかなって。
人として ” 生きる ” ということ。
大人になるとどうしても、社会の目やら世間体やら友達との収入の差やら劣等感やらいろんなことを気にしだすんだよね。
それはたぶん外側に目が向いてるからで。外側ばっかり見て、自分と比べて、そのなかで少しでも上のランクにいけるように頑張る。
それはもちろん良いことだとはおもうんだけど、これだと幸せにはなれない。
幸せは外側にはないから。幸せを感じるのは自分だから。内側にあるモノなんだよね。
子どもの頃のように自分の楽しいとおもうことをして、自分がワクワクすることばかり見て、それ以外のことはやらないで、(勉強とか)オレなんでもできるよ。と言わんばかりに目がキラキラしている。
そのくらい「好き」に素直になっていいんじゃないかと思う。
やるべきことや仕事やタスクを一旦手放して、自分の感覚に素直に、「好き」と感じることを追求していく。好きなことに大切な時間を使っていく。
手放すのってこわいんだ。でも大丈夫。案外なんとかなるから。「なんとなく好き」ばっかりしていく。好きで埋め尽くして、にやにやしていこうよ。
人として ” 生きる ” って、そのくらいシンプルなことなんだと思うな。これが僕の答え。